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漂流する人達〜3〜

懇意な間柄であっても会う気分になれない時は誰にでもあります。特に気分にムラがあったりストレスにさらされている人には多いのではないでしょうか。今回は拒絶にまつわる恐怖を書いてみようかと思うのです。朝早く起きてぼーっとしていると、色々と閃くものがあったのでした。


「今日は疲れているから、会うことはできない。また今度」

彼はこの平凡な、ありふれている言葉を言えないのでした。身を削る思いで友人と遊んでいるのです。どうしても気分が高揚しないときは、無理矢理にお酒を飲んで自分に鞭を打つのです。友人たちが自分に抱いているであろうイメージを崩しては絶対にいけない、といった観念によって彼は少しずつ友人達と自分との差異に気が付くのです。彼はためらわず心の中で一言。


「友達との付き合いってのは、過酷だな」

正直な感想でした。しかしこの本心が外部に漏れることを恐れて、彼は無意味と思われるほどに、友人達の希望通りの自分を演じるのでした。何がなんでも、熱があっても疲れていても、演じきる。大物女優のそれと似ています。


大体においてこの手の恐怖は一般の想像を遙かに超えて巨大なもののようです。この現実離れした恐怖を知っているのか知らないのか、友人達は口を揃えて同じような言葉で彼を形容するようです。


・比類なく付き合いがいい

・良い聞き手だ

・反論をしないので喋りやすい

・冗談が楽しい


あらゆる哀しい無抵抗の姿の原型はこの恐怖にあるのではないのでしょうか。本心の吐露が、彼にはできないのです。哀しいのは、とても気の合う友人にも関わらず、その「気の合う」といったことによって、それを壊したくないばかりに吐露できないという点にあるように思います。


彼らの無抵抗は、絶望の表れではないのかと何度も思います。激しく他人を振り回し自他ともに傷ついていく例の希求の結果ではなく、絶望の結果であるような気がするのです。上記の形容に対するささやかな彼の(心の)反論をみてみましょう。


・あなた達が「いい」というなら、僕はその形にしかなれない。僕に許されているのは今のところ、あなた達の前であなた達の期待に応えるか、もしくは「否」だけなのです。「否」というのはあなた達との別れです。僕は「否」というものを意見として扱うことができず、ただ物語の最終に「完」とうつような、そんな役割でしか使うことが出来ないのです……というか反論をしないから喋りやすいって……あなた達は子供の残酷さに似ている部分がありますね。まあその残酷さに翻弄され、同時にそれを求めている僕は一体なんなんだとは……思いますけど。


素直に文章に表れています。役割の拒否はしているが、やりきれていない。最後の僕は一体なんなんだというくだりは、最も彼を顕著に表しているようですね。では本日は彼の反論をもって締めくくらせていただきます。では。。。。



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