境界例の憂鬱
今までも真に生きたことが一度も無く、これからもそういったことは無いだろう。
彼らは実際に生きて日常を送ってはいるものの、その充実感の希薄さ、生という実感のなさ、生きながらにして激しく何かが欠けているという恐怖に近い実感などを抱いています。 否応なくそれらは彼らから離れることはなく、彼らの親族、付き人のような存在でもあります。
彼らは寂しくなるとそれらと何か言葉のようなものを交わし、現実を少しの間だけ忘却し唖然とします。まるでそれらの絶望的な感覚が彼らの「家庭」のようなのです。
どうせ自分は死んでしまう人間だ、近々死んでしまうだろう。
このような警告、珍妙なほのめかし、論点のずれた確信めいた眼力、彼らは時にこのような暴挙にでます。このような発言に慣れっこになっている人は一笑することでしょう。そして 発言者自身も内心で深く絶望してそれを隠しながら笑っていることでしょう。彼は思います。近々じゃない……今日だ……と。
しかしこれは未遂に終わる場合が多いようで、完遂することは稀のようです。このようにして彼らは咄嗟に、感情的すぎる声を上げる場合があります。 いつか(すぐに)死んでしまうという声自体が、他者を請求に求める訴えに他なりません。肯定、自分の存在を認めて欲しいという欲求が働いているのです。
この豊かな時代。モノが与えられ、発言を許され、感受性を許され、自由にして良いと言われ、個性を大事にしろと言われ、夢をもてと言われ、他人に勝ち続けろと言われ…… そんな中でボーダーラインの特性がいかに異質で、それら一般的なものから逆行しているのかがよく分かります。
死を心に宿すことで、ある一群は同一性を確立しているようにも見えます。僕は思います。良いか悪いかではなく、退廃的な絶望的な生き方において、それが本当の意味においての 確立と呼べるのかどうか……むずかしいですね。今日はこのあたりで。
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