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薬物への没頭

薬物依存症のある一群には、薬物に依存している自分に依存している状態にある人達がいるようです。彼らは薬物を過度に摂取していることを、個性的、特別的、主人公的だと感じる傾向があります。彼らは陶酔の中で自罰的になることがありますが、それは決して本来の自罰にある反省的なものではなく、自分を無遠慮に孤立させ、もう誰にも助けては貰えそうにない場所に立たし(しかし決して100%ではない、いや言い換えるなら最後の砦はしっかりと守っているようだ)そういう自分を眺めてうっとりするという具合なのです。ここにも彼らの自己陶酔があり、彼らの空虚な自己がくっきりとあらわれているように思います。


危ないことをすることが(ここでは薬物を)彼らの劣等感を癒し、同時にそれを一層根強く確固のものにしていくようです。彼らは人に真似出来ないことをやっている自分に自惚れて、それによってピントはずれな優越感を抱えて、何か自分が特別な人間だという風に考えていくのです。こういった錯誤によって、これまでことごとく本来の自己と直面する機会を奪われているので、彼らの中にはまったく自己の空洞が気にならない人達もいるようです。


自己の修復、あるいは見直しの為に薬物依存に入った人と、無目的に自己とは何にも関わり合いがない状態で入った人とでは、根底が変わってきます。両者危険なのは前提としてありますが、前者は利己的な動機で入っており、またその自主性が強ければ強いほど、深刻なトラブルを受けるまで依存状態をつづけるか、少しやってまた違うものへ(つまり薬物から脱し)依存するかのどちらかしかないのではないでしょうか。後者から前者へと変わっていく場合はあるようですが、前者から後者へと変わって行く場合は皆無です。


後者はすぐに去るか、適度に依存に陥るみたいに、気が向いた時、誘われたとき、自分の意思とは関係なくその環境にいるように見えます。自己という観点から見ると、深刻なのは後者の方です。自分が無いという理由から泣きわめくのは前進と見ることもできますが、泣けと言われれば泣いてみる、笑えと言われれば笑ってみる、これは前進とも後進ともとれません。これは停止です。なにも欲さない自主的な停止と言えるでしょう。こう考えれば後者も方向は違えど、自主性によって行動しているのだと分かります。


さいごに依存という形から同一性を取得できる人は、依存対象がなくなると当然すぐにでも探し出さなければならないようです。彼らの無気力は何かに依存しても決してうまることはないのではないでしょうか。より深刻な依存は、同時に自己の空虚をあらわにするので、トラブルになりやすい。空虚をみつめるとみんな恐くなってしまって、もう絶対に依存はしないと思う。けれどそれは生殺しのようなもので、そんな状態に耐えられる人はいない。


自己喪失状態が当たり前の時代において、自己を見つけるというのは難しいことです。ましてその依存対象が過度に反乱している今、いったい誰が正しくアイデンティティを取得できるのでしょうか。頭がいたいものです。



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