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治癒にともなう葛藤

境界性人格障害というものを「治癒」することは可能だろうか?

またここでいう「治癒」とは一体なにを指すものか。


人格障害者、それ自体が病院へいくのは、著しく偏った問題行動が激しくて(家庭内暴力、出勤拒否、不登校、引き篭もり、極度の過食、拒食など)が激しくて親が連れていくケースと、自ら何らかの心理的救済を求めて訪れるケースがある。また例外的に何らかの犯罪に関与してしまい、強制的に連れられてくるケースなどもある。


彼らはその不安定さをもてあましている。


治したいと言う。人間関係での障害も社会不安的な障害も、過度な自己防衛によって引き出された結果である。それを「治したい」……さて、それはどういうことだろうか。


短気を無くし視野狭窄を無くし怯えと過敏さをなくすことである。これは同時に、今までの自分を無くし、新たな自分へとなること……


彼らはこの当たり前を、どうにも受け入れがたいと感じる。ただこれを受け入れないことにはまず「治らない」。だが何か無意志的に反逆するかのように、彼らはほとんど絶対に受け入れない。


「治したい」と言っていた本人が、土壇場になって「治したくない」と言う。これは彼らが抱えている決定的な矛盾である。それは子供から大人になることへの、嫌悪、恐怖、罪悪、さまざまな深刻さである。


行き場所もなければ、生き場所もない


仮に彼らが子供であると過程しよう。滅茶苦茶な子供であると。その滅茶苦茶さ故に彼らは自己嫌悪に陥る。「今のままでは駄目だ」と感じる。同時にそれが意味するのは、彼らの存在場所の不在である。大人になる事も出来ず、かといって今の状態(子供)のままでもいられない。


公園のシーソー。ちょうど、あんな感じなのかもしれない。



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